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こころのひなた

ひとは、変われる。今からでも。

何が「幸せ」か、どうやったら「幸せ」になれるか、その答えは、他人の言ったことの中にはなさそうだ、それより自分に聞いたほうがよさそうだ

【何が「幸せ」か、どうやったら「幸せ」になれるか、その答えは、他人の言ったことの中にはなさそうだ、それより自分に聞いたほうがよさそうだ】の件

どうすれば幸せになれるか?
「こうすれば幸せ」
それがわかったら、あとはそこに少しずつ近づければいい。

でも、その「こうすれば」がわからなくて。

ずっとずっと、外側に「正解」を求めてきました。
良い成績がとれるよう頑張ったり、
会社で評価されるように頑張ったり、
旦那子供に喜んでもらえるよう、苦手な家事子育てに悪戦苦闘し、でも出来なくて落ち込んだり、
「こうすると人生は良くなる」と書かれているような本を大量に読んだり、
良い事をいうなと思う先生のいるセミナーに通いまくったり・・・


ようやく、気づきました。
それって全部、「ひとが言ったこと」「ひとが思うこと」を基準に、動こうとしていたこと。
全然、自分の基準で決めてなかった。

だから、そもそも何が幸せか、わからなかった。
だから、すぐに、ぶれてしまっていた。
だから、キリがなかった。
「こうあらねばならない」何かと比較して、自分を責めた。
死にたくなった。


一番大事なのは、
自分の気持ちに気づくこと、
自分で選択すること

何が心地よいか、しっくりくるのか、心の底からいいなぁと思えるのか、本当のところは、自分にしかわからないから。

何が幸せかは、自分で決めること。


そっか。
心地よいと思えること、素敵だなぁと思えること、
ただ、それを自分のなかで確かめて、それを選択して増やしていけばいいんだ。


30代も半ばにして、
ようやく、このことに気がつきました。

「今、ここ」だけとは

「今、ここ」だけ とは


とある母娘を見ていて、ふと、思ったのだ。

なんで、そんなに幸せそうなのだ?


ちょうど私は、子育てに関して

絶望を抱えていた。

私には「問題」がありもう何もかも無理だ

その原因は云々云々・・・

そして世界は云々云々・・・

まただ、もう、生きていくのがつらい。


なす術なくうなだれていると、

しばらくして、とある母親に話しかけられた。

何歳ですかとか、保育園がどうだとか、

うちではこんな「問題」があってね等々、

とりとめもない話をした。


少し、気が和らいだ。

一人抱えていた「問題」を、

とりとめのなさ、どうしようもなさ、

よくある普遍的な「現象」としての

認識に変わったのだと思う。


そこへきて、あの母娘だ。

「なんなんだろう。」

その光景は、私に「違和感」をもたらした。

母親は、笑っていたのだ。

3人もの子供を抱えて。

まるで、悩みなんか、「存在しない」みたいに。


そうなんだ。きっと、事実、

あの母親の「今」には、悩みは、「存在しない」んだ。

何故なら、あの母親は、「今」「幸せ」だから。


そのことは、なんでもないようだったけれど、

眠りにつく前、なんとも言えない、

ずっとずっと味わえなかった「幸福感」で満たされた。

そして、その出来事をふと、思い出し、

私の中でものすごく重要な出来事となった。


「今」「幸せ」を感じているとき、

そこに「悩み」は介在し得ない。

何故か?

「悩み」は、自分が創り出したものだから。

「悩み」は、全部、自分が勝手に頭の中で考えていることであって、幻だから。

不可分離であった「私」と「問題」の間に、隙間が生まれた。


「今」実際に起きていることと、そうでないこと、そこの区別が、腑に落ちた。気がした。

そうなると、悩みは、いつだって手放せる。

もちろん、意図的にその現象について、考えてみることも、できるけど。


それでも、以前の私が、同じ境遇にあったとして、同じことに至ったか?

それはわからない。

ただ、言えるのは、

悩みに悩みまくって、悩むことにすら嫌気がさしていたこと

そして

完全に「今ここ」にいるひとの光景を見て、それがあまりに自分と対極であったこと


与えられているのは、今、ここ、だけ

なのだなぁと思った。

過去の悩み云々も、未来についてのやきもきも、

引っ張り出せば、それは

「今」の悩みになる。

たった今、起こった出来事も、もう、

過去のものだ。


今、何を感じるか。

悩みか、心地よさか。

それは、選択できることだった。



【からっぽの力学】

【からっぽの力学】

からっぽになったとき、意外に気づくのは
からっぽにはならない、という事実である

「私」がからっぽになると、その空間は
「私」を超えた何物かで満たされる

とらわれの目がなくなり、
なにもない、と思っていたそこに
存在しているものに、気づく

そして、
本当の意味で、
「からっぽ」にはなり得ないことに、気づく


それは
むしろ、身軽で、気楽で、自由で
満たされた存在



友よ、からっぽを楽しもう!

【あなたは受容体】

【あなたは受容体】
この宇宙の法則からみたとき、
わたしたちは、受容体である。

だから、感じることや、感覚を受けとることを
止めることはできない。

しかし、わたしたちは人間である。
受け取った感覚を
観て、知り、選択することができる。

観るとはどういう事か?
普段小さくなりがちなあなたの視点を
宇宙規模に広げ、俯瞰してみることである。

知るとはどういう事か?
観たものから、あなたとは何者であるか、あなたに与えられているものは何か、そして、この宇宙があなたに求める、あなたの使命とは何かに気づくことである。

選択するとはどういう事か?
その使命を果たすと心に決め、日々、その使命と調和する選択を実践することである。


わたしたちは、ひとりひとり、
役割の異なる受容体である。


こう考えると、
ただ一人も同じ人間がいない、
その理由もわかる気がする。


どうしようもない日

【どうしようもない日】
どうしようもなく傷ついてしまう日は、
あるものだ。

そんな日は、
ただ、やり過ごすことがポイントだ。


考えるだけ、どつぼにはまる。
そんな日もある。

青い空がないのではなく、
青い空のかけらすら、頭に思い浮かばない。
そんな日もある。


悲しみのど真ん中にいる間は
悲しみの構造が見えないから。


泣けてこれば、泣けばいい。
疲れたら、眠ればいい。


ただ、自然に任せるしかない。
そんな日もある。


一つだけ、忘れないでほしい。
その悲しみが、あなたが生きている間じゅう
永遠に続くものなのかどうか、
それともその正体が判明する日が来るのか、
それは、生きてみないと、わならないし、
試してみないと、わからない。


でも、どうしようもない今日は、
とりあえず、考えることも保留としよう。

【愛】
幼い頃、内に沸き起こった小さな愛を
拒絶された(と受け取った)ことがある。

それ以来、理屈ではわかっても、自分に沸き起こる想いや自分そのものを許容することが、まだ、できない。

それでも、だからこそ、
自分の中にあってほしいと願うのは
そんな幼い体験を超越し包括するくらいの、
「愛」なんだと思う。

でもそれは、外から獲得し保持するものではない。

宇宙の法則は、私たちに日々語りかける。
得られるものは失われる。

すなわち
日々絶え間ない そこかしこに溢れる 永遠の愛なるものがあるとすれば それは
得たり失ったりするものではなく
そこに最初からあるものということだ。
私たちは、日々それを見失うのだ。

では、どうすればそれを常に見られるのか?
私はまだ、明確な答えを知らない。

それでも、願うことはできる。
それをみてゆくのだと、選択することができる。

そして、ほんのわずかでも
ここに 生きる わたしという存在や
目に映るもの 大地や生命たちの中に
かすかな息吹や鼓動 心地良さや 愛しさ 尊さ 震えるような感動を
体感し共鳴することがあるのなら。

そこには既に、愛が流れている と言えないだろうか。
この宇宙を覆い尽くすほどの、溢れんばかりのそれが。


宇宙の法則は、こうも私たちに言う。
「想像できることは、すべて現実だ」

私たちは既にその一部であり、それと一体なのだ。


いつの日か、
「そんな小さなことで悩んだ日もあったなぁ」
そう言えるように。


嫌われること。

【嫌われること。】
嫌われるのが、怖いですか。

嫌われるのは、悪いことだろうか。
嫌うことは、悪いことだろうか。

好きもあれば、嫌いもある。

それって、当たり前で、普通のこと。

そう、
嫌われるという出来事は、
特別なことじゃない。
大したことじゃないんだ。

好きも嫌いも、価値観は個人の自由。
それだって、すごく流動的。
時が過ぎれば、好みも考えも変わる。

嫌われたらだめ、というのもまた、
自分が勝手に作ってる価値観の枠だ。
それも、守る必要のない枠になったとき
ひょっとすると外れるのかもしれない。

とりあえず、あまり深刻に考えるのはよそう。

だって、悪いことしてないのに、
どうしようもない時って、あるしね。
それは、相手のなかの事柄であって、
わたしがどうこうすべき事じゃない。

好きになる。嫌いになる。
それは、ただのよくある現象なのだ。


そんな時の、魔法の言葉。
「なるほどね」
「ま、いっか」



この宇宙のバランスに
想いを馳せながら。