死にたくなるとき②

死にたくなるときの、別パターン?、考えてみた。

自分には何もできない。
生きていても、楽しくない。
自分のやりたい事も、わからない。
自分には価値がない。
そんな気がするとき。

自分以外の、何ものかになろうと、してたり。
あるいは特別な存在に、「なろう」としてたり。
そんなことが、あった。

立派な人。
役割や義務を果たせている人。
親や社会から、認められるような人。
好きなことで仕事して成果を出してる人。
目に見える形でひとを喜ばせることが出来る人。


そんな風に思っている方に、朗報。
本来、ひとはみんな、特別な存在。
みんな違うし、みんないい。
みんな、なんにも、問題ない人。


当たり前のようでいて、
そこが腑に落ちてないと、
(色眼鏡を通した価値観で見てしまうと)
めげる。


自分はだめだ・・・
自分には根本的に問題がある・・・
とか。


わたしたちは、ひとと比べる。
違いがある。
そこに発見がある。

そこまではいいのだけど、そこから、
「良い」とか「悪い」とか、
「優れてる」とか「劣ってる」とか、
「評価」や「ジャッジ」が入るから、
「問題」がうまれる。


只々、それぞれ、違う。
ちがった特徴がある。
ただ、それだけ。


良し悪しとか、優劣とか、
「ジャッジ」をやめると、

自由になれる。


事実としてわたしという存在やこの一生に本当に価値がないとは、
言えなくなる。


今、目の前は奇跡であふれている、

という実感が、湧いてくる。
かもしれない。

ネガティヴスパイラルからの、脱却?

【ネガティヴスパイラルからの、脱却?】

要するに気づきが大切と言ってしまえばそれまでなのだが、
先日、そこから脱出する糸口を、発見した、かも?
と思った。


なんと言っても、ことネガティヴさの歴史にかけては右に出るものはいない、と、思っている私である。

「嗚呼、晩御飯どうしよう・・・」
「嗚呼、また今日もお惣菜とか・・・」
「嗚呼、なんかもうまたお惣菜とか、美味しくないし、気持ち悪いし・・・」
「嗚呼、なんてヒドイ母親なんだ・・・」
「嗚呼、自分にはもう無理だ、無理、無理」
「嗚呼、もう最悪・・・」


ここでふと、違和感を感じたわけである。
「ん?これは、このダークな結末は・・・
本当に、私の、望んでいることか???」
「なんか、毎度お馴染みの結末、もうそろそろよくないか?」


そして、ふと、思ってみたわけである。
「そうや、そんなにお惣菜食べるのが嫌やったら、めっちゃ簡単な「卵料理」やったら、作れそうやし、美味しそうやん」



ネガティヴに陥るのも簡単な私だが、
復活するきっかけも、案外、
ほんの些細な出来事に、潜んでいるのかも知れない。


あるいは、もうこれでもかっていうくらい、飽きるくらい、ネガティヴな考えを突き詰めてみたからか。。。


でも、真似して死なないでね。


アドバイスするということ

【アドバイスするということ】

友人の話を聞くうちに、気になってしまったこと。

もっとこう考えたら幸せなのに
これはこう考えたほうがうまくいくんじゃないか

でもそんなものは、全部自分のエゴだ。
その人の歩む、その人の人生を、尊重していない言葉だ。

息子が一緒懸命、服のボタンをかける。
出来なくて、悔しくて、泣きながらも、頑張ってまたトライする。

私は、ただ見守ることしかできなかった。
きっと息子が、自分の力で、成し遂げたいことだ、そう感じたから。

きっと友人についても、同じようにするしかないのだ。

助言し、介助し、介入することもできる。
でもそれは、本当に相手の望むことだろうか。

もちろん、それらを相手が望んだとき
    側にいるよ
そう、伝えておくことはできるけれど。

きっと、心の底から本人が納得しなければ
本当の意味では何も変わらない。
不幸を選ばなくなることも。
正しさを競うのをやめることも。

時に私たちは、見守ることしかできない。

人生は、他の誰のものでもない。


死にたくなるとき①

死にたくなるときって、
自分で身の回りのこと(環境や状況や出来事による影響)を変えられない、コントロールできないと思うとき
変えられないから、もう無理だと思う、現状からも抜け出せないと思う
そんな時が、
一つのパターンとしてあるかもしれない、と思った

そんな時は、
とりあえず、落ち着こう
深呼吸しよう
それから、
ほんの少しでもいい、
どこか身の回りの一部を、掃除してみよう

皿洗いでも、机の上でも、鞄の中身でも
スマホの中でもいい。
要らなくなったメーリングリスト
停止するのもいい。
アドレス帳から削除するのもいい。
道端に落ちてる、ゴミを拾うのもいいね。
シャワーを浴びる、歯を磨くのもいい。

それだけで、
今すぐ死にたい気分が、少し落ち着くかも。
ほんの少しでも、
まだ出来ることがある、
現状を変えられることがある、
って思えるかも


何が「幸せ」か、どうやったら「幸せ」になれるか、その答えは、他人の言ったことの中にはなさそうだ、それより自分に聞いたほうがよさそうだ

【何が「幸せ」か、どうやったら「幸せ」になれるか、その答えは、他人の言ったことの中にはなさそうだ、それより自分に聞いたほうがよさそうだ】の件

どうすれば幸せになれるか?
「こうすれば幸せ」
それがわかったら、あとはそこに少しずつ近づければいい。

でも、その「こうすれば」がわからなくて。

ずっとずっと、外側に「正解」を求めてきました。
良い成績がとれるよう頑張ったり、
会社で評価されるように頑張ったり、
旦那子供に喜んでもらえるよう、苦手な家事子育てに悪戦苦闘し、でも出来なくて落ち込んだり、
「こうすると人生は良くなる」と書かれているような本を大量に読んだり、
良い事をいうなと思う先生のいるセミナーに通いまくったり・・・


ようやく、気づきました。
それって全部、「ひとが言ったこと」「ひとが思うこと」を基準に、動こうとしていたこと。
全然、自分の基準で決めてなかった。

だから、そもそも何が幸せか、わからなかった。
だから、すぐに、ぶれてしまっていた。
だから、キリがなかった。
「こうあらねばならない」何かと比較して、自分を責めた。
死にたくなった。


一番大事なのは、
自分の気持ちに気づくこと、
自分で選択すること

何が心地よいか、しっくりくるのか、心の底からいいなぁと思えるのか、本当のところは、自分にしかわからないから。

何が幸せかは、自分で決めること。


そっか。
心地よいと思えること、素敵だなぁと思えること、
ただ、それを自分のなかで確かめて、それを選択して増やしていけばいいんだ。


30代も半ばにして、
ようやく、このことに気がつきました。

「今、ここ」だけとは

「今、ここ」だけ とは


とある母娘を見ていて、ふと、思ったのだ。

なんで、そんなに幸せそうなのだ?


ちょうど私は、子育てに関して

絶望を抱えていた。

私には「問題」がありもう何もかも無理だ

その原因は云々云々・・・

そして世界は云々云々・・・

まただ、もう、生きていくのがつらい。


なす術なくうなだれていると、

しばらくして、とある母親に話しかけられた。

何歳ですかとか、保育園がどうだとか、

うちではこんな「問題」があってね等々、

とりとめもない話をした。


少し、気が和らいだ。

一人抱えていた「問題」を、

とりとめのなさ、どうしようもなさ、

よくある普遍的な「現象」としての

認識に変わったのだと思う。


そこへきて、あの母娘だ。

「なんなんだろう。」

その光景は、私に「違和感」をもたらした。

母親は、笑っていたのだ。

3人もの子供を抱えて。

まるで、悩みなんか、「存在しない」みたいに。


そうなんだ。きっと、事実、

あの母親の「今」には、悩みは、「存在しない」んだ。

何故なら、あの母親は、「今」「幸せ」だから。


そのことは、なんでもないようだったけれど、

眠りにつく前、なんとも言えない、

ずっとずっと味わえなかった「幸福感」で満たされた。

そして、その出来事をふと、思い出し、

私の中でものすごく重要な出来事となった。


「今」「幸せ」を感じているとき、

そこに「悩み」は介在し得ない。

何故か?

「悩み」は、自分が創り出したものだから。

「悩み」は、全部、自分が勝手に頭の中で考えていることであって、幻だから。

不可分離であった「私」と「問題」の間に、隙間が生まれた。


「今」実際に起きていることと、そうでないこと、そこの区別が、腑に落ちた。気がした。

そうなると、悩みは、いつだって手放せる。

もちろん、意図的にその現象について、考えてみることも、できるけど。


それでも、以前の私が、同じ境遇にあったとして、同じことに至ったか?

それはわからない。

ただ、言えるのは、

悩みに悩みまくって、悩むことにすら嫌気がさしていたこと

そして

完全に「今ここ」にいるひとの光景を見て、それがあまりに自分と対極であったこと


与えられているのは、今、ここ、だけ

なのだなぁと思った。

過去の悩み云々も、未来についてのやきもきも、

引っ張り出せば、それは

「今」の悩みになる。

たった今、起こった出来事も、もう、

過去のものだ。


今、何を感じるか。

悩みか、心地よさか。

それは、選択できることだった。



【からっぽの力学】

【からっぽの力学】

からっぽになったとき、意外に気づくのは
からっぽにはならない、という事実である

「私」がからっぽになると、その空間は
「私」を超えた何物かで満たされる

とらわれの目がなくなり、
なにもない、と思っていたそこに
存在しているものに、気づく

そして、
本当の意味で、
「からっぽ」にはなり得ないことに、気づく


それは
むしろ、身軽で、気楽で、自由で
満たされた存在



友よ、からっぽを楽しもう!